生き甲斐の心理学

自分は何の為に生きているのか? 生き甲斐とは何か、自分の魂と成育史と身体を大事にしているか、を思索していきます。

自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

2024年06月11日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
時々「全てが嫌になった、どうしたらいいでしょうか?」と聞かれます。現在の世界の人口は80億人だそうですが、この倦怠感というか、生き甲斐喪失の内容は、80億の種類がありますので個別にキチンと拝聴していかないと「生き甲斐の心理学」では答えようがありません。共通して断言出来る事は、今、その人は全てが嫌になつている事です。嫌になる、という内容は3つの発生源があると言われています。魂からのうづき、成育史からの発信、年齢による身体からのシグナル、この3つのどれから来ているのかなあ、と識別する事から始まります。この3つから来ている事は間違いありませんので、まずは、どれかなあ、と思索開始すると、身体は何となく、その答えのありかを教えてくれます。

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自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

2024年06月10日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
大部前のお話ですが、太極拳の仲間が同時に、いつのまにか金剛流の謡曲を練習するようになりました。太極拳仲間で筑波山へバス旅行した時に、その中にお能の先生がおられ、それがご縁で太極拳の仲間が謡曲にも手を出した次第です。「橋弁慶」でしたかが、その練習時間よりもその後のお茶の時間のほが長いのでなかなか私は上達しません。しかし楽しくてたまりませんでそた。お茶の時間の会話の一部は、某所でのテロリストの話になり切ない会話となりました。フランス革命、ロシア革命、その他の事件、何故、このような人質を殺戮するような事件が起きるのだろう、という切ない会話でした。結論は自分達の身近で、それなりに平和構築に努力しよう、という当たり前の結論ですが、遠く離れたアフリカの事件ですが、普通の私達市民に出来る事は、平和解決の為の「祈り」しかないようです。平和の為に祈る、という行為は何か価値がないように言う人もいますが、祈らないり祈るほうが、祈る人自身に恩寵がくだるようです。何も出来ない立場の私が祈ると底知れない力と知恵が湧き出すのです。このようなアフリカでの事件では、何も出来ずに祈るだけですが、今後とも、世界の哀しいニュースに触れた時、祈りをささげたいなあと思いました。

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自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

2024年06月09日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
不思議なもので心が或状態になると次から次へと泉が湧き出すように知恵が浮かんできます。これは自分に才能があるからではなく人間の身体に備わっているシステムが自然に働きだすからです。どんな状態かと言いますと、例えば大自然の大地から直接湧き出す温泉につかり周囲の風景に感動している時が、この代表的な知恵が湧き出す事例です。防衛機制が働いてなく心が自由な時に、この泉が湧き出すのです。心が自由、という事は一時的な現象かもしれませんが、何者にも固執していない温泉の気分、この時、または、その後にふーっと気付く知恵が私に大きな幸福をもたらしてくれています。これを恩寵と呼ぶ人もいれば人間の素晴らしい能力と呼ぶ人もいれば色々の神々からの恵みと呼ぶ人もいます。長い人類の歴史を学ぶほどに、この知恵の定義を様々な文化、宗教がサムシンググレートに結び付けて書いています。自分の能力だ、と自慢した途端にその人の人生が破綻していく歴史も面白いです。

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2024年06月08日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
今、生きている80億の現代人が全て悔いのない人生を歩めるだろうか?その内の何パーセントが臨終のときに感謝しつつ息を引き取るだろうか?この答えは誰も知らない。しかし知らないといって放置出来るテーマではないような気がします。不可知論だとは理解出来るのですが、身近な友達の悩みを見れば放置できません。何とかしたいと思うのが人情でしょう。これに対する私の答えは「信じて見えてくるもの」以外には無いと確信しています。魂が無いと信じている友人は自分の死とともに世界が消滅する喜びを語ります。しかし死んだ時、もし魂があり、愛である神様に遭遇した時のショックは本当に気の毒です。愛である神様は優しく迎えてくれるでしょうが、私は生きている内から愛である神様を信じて死にたいと思います。信じて死んで、それで何もないならば、それはそれでいいのです。生きている間、死んでも魂があり、愛である神様に出会える喜びを何十年も感じて生きたのですから、それはそれでいいなああ、と思うこのごろです。悔いのない人生を思索する場合、自分が所持する魂を避けると、この「悔いのない人生」という永遠のテーマは、どんな悟りを得ても空しくなる危険がありますので自分の死を正面から見据えた思索をしていただきたいと思います。
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自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

2024年06月07日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
ふと不安になる、人はその時、どの道を選ぶのが良いのだろう、と。いつも不思議な想いでこの分岐点を考えています。或時は、なじみの道を選んで歩いたので、心が平安感を感じたまま歩けるのですが、なにか物足りなくて、少々冒険をして別な道を走りだします。そうした冒険をしたばかりに、大失敗して、立ちあがれない時がありました。こうして段々と知恵がついてきて、身分相応の道を選びながら今日に至りました。どの道を選ぶかは、その時の気分と健康度と願望の激しさ、熱のいれようで選んでいるようです。死んでしまいそうな選択と冒険をしたこともありましたが、何とか今日、健康で明るく元気に生きているという事実は、私なりに自分を大事にしてきたのでしょう。これからも、心の病気にならないように、健康を害さないように手探りで少々、冒険をしながら悔いのない人生を選択していきたいと思います。エレミヤの書・6章は、こんな道の選び方を書いていますが、生き甲斐の心理学を真似して書いたのかなあ、と思うくらい古代の人々も同じような事を考えている、と可笑しくなりましたが、考えてみれば欧米で研究した心理療法理論は新旧の聖書が背景にあることを私は改めて確認し、比較宗教学の面白さを再確認した次第です。
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自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

2024年06月06日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
あちこちの世界の神話に時々、蛇の話が登場しますし、その脱皮の話を美しく描く神話もあれば、なにか気味の悪い話として書き遺している神話もあります。要は人間はマンネリズムに陥ると碌なころにならないよ、日々新鮮な心でイキイキと生きていこうね、と言いたいわけです。努力してやっと生きざまに安定感を与える指針や哲学を完成させたので、数カ月とか数年はその安定感のまま、堂々と日々を生きていくのですが、自分を取り巻く歴史環境はどんどん変化していきますので、時々立ち止まり点検しないと何となく、あれ変だなあ、と思うようになります。再点検すると「努力して確立した指針・哲学」の一部を、あるいは全部を脱皮させる必用を感じますが、人はそう簡単に新しい人にはなれません。昔の自分の成育史に固執して悶々とする人、サラリと新しい人になれる人、人生は不安が本質だ、という事に改めて気付きます。人間の本質は安定ではなく、不安、という真理を改めて悟り、覚悟します。改めて不安定な自分を安心させてくれている信仰の力に感謝しています。
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自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

2024年06月05日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
私の友人のs君は何故か「聖書」という言葉に触れると拒否反応を起こしていましたが、どうも私に内緒で、しこしこと陰で読んでいるようです。特に詩編を愛読し心を慰めているようです。私の大好きな86章は「生き甲斐の心理学」が必死で訴えている「自己実現への道」を子供でも分かるように上手に書いてあり、いつ読んでも人生での自分なりの生き抜く道を示唆してくれています。旧約の時代、特に詩編を書き遺してくれた人々は厳しい時代を生き延びながら、人々がいかに幸福に地球を生きたらいいかを教えてくれています。人類の知恵の宝庫を無駄にしないようにしたいものです。

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自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

2024年06月04日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
深大寺の案内書によると733年建立とあります。私の散歩コースに深大寺があります。隣接して東京都経営の神代植物公園があり、そこへの散歩は、私の生き甲斐でもあります。京都・奈良を旅する時も、時々、それぞれの神社仏閣での絵馬を、一枚だけ、ちらりと見させて頂く事にしています。今年、拝見させていただいた深大寺の絵馬には「良い娘婿がきますように」と書かれていました。この言葉から、それを書いた人を巡る色々と人生を想像していますが、この絵馬を書いた方が思い通りになればいいなあ、と思う一方、そのお嬢さんは案外、家を出たいなあ、と考えているかもしれないし、最初は良いと思われた娘婿さんも、その内、家庭を混乱させるかもしれない、人の運命は難しいからなあ、とか考えてしまいました。全国の絵馬での祈りと願いを全知全能の愛である神様は、多分、私とは違う想いで受け止め、大事に見守っているだろうなあ、とも思いました。愛である神様から直接、この絵馬のコメントを聴きたいもの。意思あれば道ありで、心に湧きだす真剣な願望の中には神聖なものがあるようです。
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2024年06月03日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
書斎から眺める野川に50-60羽の白鷺が年に数回、集まり、ただひたすら沈黙の内に30分くらいいて、飛び立っていきます。平素は1-2羽が魚を時々食べています。1-2羽の時は、野生の鵜が邪魔をしたり、足元で野鴨がいたづらをすると怒りますが、今回の50-60羽の沈黙の会議では、何をするわけでもなく(魚を食べたり等)、ごちゃごちゃ会話をするわけでもなく、ひたすら沈黙して水の中に静かに棒のように立っているだけなのです。丁度、太極拳の立禅のような姿で。この不思議な光景の意味をどなたか教えていただきたいのですが、私は勝手に解釈しています。その解釈は「存在を五感と体感で確認し、安心して生きていこう」と決意しあう会合ではないかと!五感と体感で互いの愛を、友情を、親子の愛を確認しあう場合、言葉は不要です。一年の間に子供を産んで、その紹介を一族にしているような雰囲気なのです。動物である白鷺も人間も同じだなあ、とこの平和な風景を楽しんでいます。
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自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

2024年06月02日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
大部前の想い出ですが、sさんは、昭和2年生まれの元気いっぱいで、かつ、明るく爽やかなSさんは太極拳の仲間でした。その方のお世話で仲間達30名くらいが狛江の某中華店を借り切り新年会が開かれました。当時、「一番若い方は1980年生まれのご夫妻ですが宴会中の私のテーブルでの話題は古代史や、自慢話ではない、それぞれの生きざままでの楽しい会話が展開していました。さて太極拳を愛する身心ともに元気な方が大勢おられたせいもあるのですが、持病があっても病気の話は一切出ませんでしたが、生きるよろこびを追求する情熱に感動しました。好奇心が強く、それぞれが大好きな分野の勉強を楽しみ、かつ、この太極拳には、義務感からではなく強い興味に揺り動かされて精進している集団です。色々の哲学や宗教をもった人々の会合でしたが、共通の趣味である太極拳の仲間達が繰り広げるこの雰囲気に、こんなひびの幸せもあるのだなあ、と感謝しつつ帰宅した一日でした。太極拳ばかりでなく、健全な精神は軽やかな運動と心の明るい仲間たちからいただけるのだなあ、と感謝しました。

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自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

2024年06月01日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
動物も植物も死を迎えます。その死の理由は医学・生物学に答えを求めて下さい。比較宗教学・比較文化での答えもエリアーデの「世界宗教辞典」のそれぞれの宗教の原理から皆さまが思索してその答えを自分で探して下さい。私の信仰は私にこう答えを与えてくれています。愛そのものである三位一体の神様に会う為に私は死にます。これだけの事です。長い厳しい人生を明るく逞しく生き抜いて最後に優しく親切で愛そのものである神様の所に私はまっすぐ飛んでいきます。信仰の力は他者から見ると大バカ者に見えるかもしれませんが私の信仰は私の死を楽しいものとして解釈させているのです。何度も死にかけた海外での事件や暴動での死への経験を通してもなお、私はこの信仰はゆるぎません。時々はぐらぐらしますが静かに黙想すると直ぐこの愛である神様への信頼がまた湧き出すのも恩寵なのでしょう。あとは本当の臨終の時に私がどうなるか、それはその時の事です。しかしこの愛である神様の所にまっすぐ飛んでいきたい、という願望は消える事がありません。
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自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

2024年05月31日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
神が存在するかどうかの問題は人類の永遠の課題ですが比較宗教学・比較文化では存在論としての信ぴょう性はその筋の学者にお任せしています。その代わりキリスト教、仏教、ヒンズー教、イスラム教等の信徒を統計的、臨床的に洞察しつつ何を見ているか、神仏をどう見ているか、その信じ方のありようを洞察して「信じて見えているもの、見えないもの」を学問として理解しようと努力しています。例えば私の場合、カトリツクの三位一体の愛である神を信じた時に見えた親の愛は、信じる前のものと相当違いました。高校時代に洗礼を受けましたが煩い親の干渉が何とも言えない深い親の愛として理解出来ました。何気ない散歩の途中に見るアリの大群が自然の摂理という美しいものに変身しました。身辺の悲劇の奥にある意味を考えるようにもなり、過去の歴史の解釈も激変しました。このように信じると見えてくる世界がある、という事にも驚きでした。存在論からの神の存在を自分が思索するよりも「信じて見えたもの」が余りにも魅力的な愛である神なので存在論は大事ですがもう、どうでもいいなあ、という信仰の世界に変換されました。信仰の世界は議論の世界ではなく幸福曲線(平安感、友好的感情、健康観、幸福感、統御感)の世界なので他者が入り込めない世界なのです。丁度、愛する二人の世界のようなもので、神と自分との問題となります。それだけに他者から信仰者を見た場合、そこにもし教養と礼節と真善美を感じない場合、その人の信仰とその宗教の意味は激しい侮蔑の対象となります。常識と教養の無い信仰者が恐れられるゆえんでしょう。 

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自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

2024年05月30日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
大部前、ここで紹介しましたエリアーデの「世界宗教辞典」をお読みになると分かりますが、地球に存在している色々の宗教を良いとか悪いとかいう視点で見ようとはしていません。学問としてその宗教の姿を把握しようと努力している精神がこの世界宗教辞典から読みとれますし、何故、その地方にその宗教が必要であったか、という疑問への答えもキチンと書かれています。このようにこの比較宗教学・比較文化の視点は「信じて見えてくるもの、信じて見えなくなるもの」という視点から捕らえようと努力しています。高天原という概念はその国の権力の中枢がどんな所から生まれてきたかを国民に理解させ統治、管理、正中線を見せようとしていますし、えびす神社の「商売繁盛、ささもってこい」はめちゃくちゃにもうけるのもいいが、キチンと感謝しなさいよ、と錯乱をいさめています。このようにカオス(混沌)の世界を何とか統合された世界にしようという人間の魂に替って比較宗教学・比較文化の視点から暖かく人間に希望を持ってもらい、逞しく明るく元気に生き抜いてくださいね、という学問です。この信じて見えてくるもの、信じた為に見えなくなるもの、という視点を人間の身辺に生起する森羅万象を解釈する方法を学問として展開していく視点です。


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自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

2024年05月29日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
数年前、京都の「えびす神社」を参拝しましたが、その途中、にぎやかな楽典が聞こえだしました。その音楽を耳にすると、踊りだしたい気分になるのです。その衝動に驚いた事があります。インドの何とかというリズムに触れた時も身体が自然に踊りだして困りました。どの民族にも、どの人にでも、或リズムに触れると魂と身体が異常なほど、陽気になり、祈りと踊りが混在してくるのです。その時、聴きました「えびす神社」の「商売繁盛、ササもってこい」という言葉にも深い意味があるようです。商売が繁盛してお金が出来たら御酒をとどけよ、と私は勝手に解釈していますが、商売が繁盛した時に御酒を届けますが今は貧しい私を豊かにしてください、とも解釈出来ます。その人の成育史は、その人の身辺に生起する森羅万象からくる五感に触れた時、その解釈は、その人を幸せにするようにと働きますので、素直に五感からくる示唆を一旦受け止める訓練をしていくと、物凄い知恵に恵まれるそうです。五感からの喜怒哀楽をねじまげる人は、その知恵に気付かないとも言われています。五感を正直に意識化する訓練はとても大事なようです。
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自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

2024年05月28日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
松本清張さんの最後の小説「神々の乱心」は実に面白い。私の推測ですがどうも乱心したのは大正期、昭和初期の皇室関係者の事らしく、某を巡る政治事件のようです。有名な大事件2・26の背景や満州での大連阿片事件も絡み私の世代では皇室に対して少々畏れ多い感じの小説で、ここまで書くのかなあ、大丈夫なのかなあ、と心配になる内容でした。しかしこの小説は奥が深く政治学者の某先生が解説の本を書くくらい複雑で難しい歴史を実に明快に書いた松本さんならではの推理小説なのです。昭和史発掘、清張通史、などの名作を書かれた小説家の最後の遺品なので私も相当気をいれて読みました。現代に生きる私たちがそろそろ意識化しておかないと本当の平和構築が難しくなる時代だなあ、とも思いました。戦争の恐怖は子供でも知っていますが、その戦争を生むまでの陰の歴史をこの小説は教えてくれます。中学、高校生徒も読んで欲しい小説で比較文化論、比較宗教学に興味のあるかたの必読の書かもしれません。比較宗教学視点の面白さが分かるように、ここでも徐々に話していこうと思います。
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